フィラオケ楽団員さんとお食事

定期会員として、また最近はディスカウント・チケットの頻繁なユーザーとしていつもお世話になっているフィラデルフィアオケ。
この大好きなオーケストラの楽団員の方とワインを飲みながら食事をするというすばらしい機会に恵まれた。

弾きやすい/弾き難いホール、といった話から、指揮者のタイプ、なぜエッシェンバッハがフィラオケを去るのか、主席指揮者のデュトワはどう受け止められているのか・・と言ったやや裏話もあり、さらにはいかにクラシックのオーディエンスを増やすか、ビジネスとしてのオケ運営と演奏者との関係の難しい部分、などなど、かなり広範にわたってお話を聞くことができた。

印象的だったのは話題のいくつか:

・観客としてはとても気持ちのよい音響で聴けるKimmel Center(フィラデルフィアオケの本拠地)だが、弾く側としてはかなり「難しい」ホールだそうだ。指揮者のポジションで聴こえる音と、客席に届く音とにかなりギャップがあるとか、オケの団員同士が音を聴きづらく、指揮者に結構頼って演奏せざるを得ない面が多いとか。

・指揮者として上手く機能するためには、指揮者自身がその音楽に対してしっかりした解釈を持っていることも重要だが、オケの演奏者やソリストの持つ解釈を柔軟に取り入れていく能力も大切。昔フィラデルフィアオケを振っていたオーマンディーはこの点が特に優れていて、ソリストはもちろん、楽団員から出てくるものでよいものがあればそれを積極的に取り入れる柔軟性を持っていたらしい。そのため、コンチェルトの上手い指揮者だったとのこと。
オケから出てくる引き出しの多さ、みたいなものは良いオケの魅力。フィラデルフィアオケを振ることによって新しい解釈やヒントを得られることが多いからこそ指揮者もこのオケを振りたいと感じる(良いオケの前に立って、指揮棒を振れば、"Something happens")。反対に、オケからすればどれだけ深いものを持っているのか、を示せないような指揮者は用無し(「この人はリハ1回で十分な人」)、ということを意味する。

アメリカにおいて寄付による芸術のサポートという伝統ができているのは、逆説的だが芸術活動にたいするパブリックなサポートが全くなかったから。だったら自分たちで、地元に立派なオケを作って育てていこう、そういう気概が今の世界トップレベルのオケの活動を支えている。そういった歴史背景は異なるにしても、パトロン確保のために楽団員も動員して活発に行っているマーケティング努力には日本のオケも学ぶことは多いだろう。

フィラデルフィアオケ、また一般に米国の音楽のレベルの高さは、対戦中に米国に亡命してきた人たちに支えられている。たとえば、フランスの有名な木管奏者の多くがフィラデルフィアに移住してきて、この地にて木管のレベルアップを図ったことが今のフィラデルフィアオケの音にも繋がっている。


・・など。


また、巷に価値のない批評家が多いこと(某有名紙の音楽批評コラムですら、元絵画批評をしていた人が担当するなど、批評家としてのバックグラウンドは非常に浅いことが多いとか)、芸術は自分がいかに感じるか、が一番大切だ、ということを強調されていた。クラシックファンにはうんちく好きの頭でっかちな人が多いことに疑問を感じる身としては、なんとなくそういうシンプルな意見を現役演奏者から聞けてうれしかった。

それにしても深い知性と教養を感じさせるすばらしい方で、とても楽しい時間を過ごすことができた。